問題解決アプローチ019

講師:蒔苗昌彦

判断の主体を明示しよう!

判断にしても推理にしても、それを示した人間が誰なのか、その主体を明示しなければなりません。なぜならば、組織行動においては判断/推理の責任者がはっきりしていなければならないのは当然の上、後にその判断/推理の内容についてインタビューする必要が出た時に誰が判断/推理したのか不明であるとインタビューができなくなるからです。

と言っておきながら、私がこれまで「講師から受講者への働きかけ事例」として記述してきた文章内で、私が示した判断、推理において、その都度、「○○、と私(蒔苗)は判断する」「○○であろう、と私(蒔苗)は推理する」「○○である、と私(蒔苗)は思う」等、主体者を明示した言い回しをほとんどしていません。これまでの文章、そしてこれ以降の文章は「講師から受講者への働きかけ事例」として記述しており、その講師とは私(蒔苗)であり、その記述者が私であることは明白であるため、主語を省略したからです。なぜ省略したか言えば、ご覧の通り「講師から受講者への働きかけ事例」は非常に多い文字数となっているため、判断/推理を示す都度、「○○、と私(蒔苗)は判断する」「○○であろう、と私(蒔苗)は推理する」「~と私(蒔苗)は思う」と言った文言を入れていたら、読みにくくなってしまうからです。

しかし、実際の問題解決に向けた過程の各節目における判断・推理においては、その判断・推理の主体者は明示されなければなりません(と私(蒔苗)は確信します)。その理由は、上述の通り、判断/推理の責任者がはっきりしていなければならないのは当然の上、後にその判断/推理の経緯や内容についてインタビューする必要が出た時に誰が判断/推理したのか不明であるとインタビューができなくなるから、です。問題解決においては、過去の判断/推理の経緯や内容についてインタビューは不可欠です。

たとえば私が実際に知っていた米国の或る企業においては、重要事項のみならず些細なことまで、判断者、決裁者、情報発信者等を明確にし、記名文書を残しておくことが社内規則で定められており、そして徹底されています。だから、何かの問題の経緯を後から辿るのは、その人が退職してしまっていない限り、容易です。逆に、同じ米国でも信用性が低い会社では、意図的に記名を避ける場合があります。つまり、誰の判断か曖昧にし、責任逃れを図ります。

日本の立派な企業においては、まさか責任逃れのために記名を避けることはないでしょう。しかし、日本の慣習として重要な判断ですら主体者を曖昧にする傾向があります。この慣習は、おそらくは、日本語の文法が主語なくしても成り立つことが主な原因でしょう。

たとえば、英語で異性に愛を告げる際、「 I love you」という形式で主体(主語)と客体を明示します。しかし、日本語ならば「私はあなたを愛しています」とは言わず「愛しているよ」と、主体(主語)どころか客体まで抜いてしまっても意味が通じます。この日本語の慣習にはもちろん悪意はなく、むしろ、全てを聞かずとも相手の意図を汲み取るという美徳とも言えますが、おそらくはその影響でしょうか、企業における判断が無記名という事態をしばしば発生します。私が問題解決のプロセスの節目節目で記名にこだわっていると、「犯人探しにつながるので良くない」という理由で反対されることがしばしばあります。私も、「責任者探し」はしますが、「犯人探し」には反対です。が、判断をした主体、つまりその判断の責任者の明示、記名は問題解決の過程において不可欠なのです。

ちなみに、たとえ言葉の綾であったとしても、「犯人探し」という言葉を、犯罪が発生したわけでもないのに、企業活動における判断の責任者を明示することを論じている際に言い出す人がなぜ現れるのか、その心理上の原因は私には不可解です。そもそも、企業活動における諸判断は、その判断は自社にとって建設的だ、または、問題解決につながる、という確信があるからこそ、その判断をした人はその判断を表明するはずです。たとえその判断は実は誤りであり後に事故・不具合等を起こし業務上過失致死の容疑を受ける結果になったとしても、判断をした時点では、正しいと思っているはずです。

裏を返せば、自分の判断は自社にとって建設的ではない、または、問題解決につながらない、と思っているならば、そうした判断は表明したり他者へ押し付けてはなりません。だから、少なくても判断が行われた時点で判断の主体(つまり判断の責任者)を明示する行為について、後ろめたさを感じる必要はありません。もしその判断に後ろめたさを感じるのであれば、そうした判断は表明してはなりませんし、押し付けてもなりません。だから、もし「犯人さがし」という言葉をどうしても使いたいならば、何かの犯罪容疑を受けた後にしましょう。ともかく、「責任者」という概念と「犯人」という概念を同列で扱う一部の奇妙な慣習は廃絶すべきです(と私は確信します)。


<ポイント>

・組織行動においては判断/推理の責任者がはっきりしていなければならないのは当然。

・誰が判断/推理したのか不明であると、後のインタビューが不可能となる。

・特に、問題解決に向けた過程の各節目における判断・推理においては、その判断・推理の主体者は明示されなければならない。

・自分の判断は、自社にとって建設的だ、または、問題解決につながる、という確信があれば、自分が判断したと堂々と表明できるはず。

・その判断に後ろめたさを感じるのであれば、そうした判断は表明してはならないし、他者へ押し付けてもならない。


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